レポート「原発事故10年 福島県の現状」

東日本大震災原発事故から10年。

日本共産党福島県委員会はレポート「原発事故10年 福島県の現状」を作成しています。

まだ作成途上にありますが、3・11を迎えるにあたり、現時点で【暫定版】として公表することにしました。

今後さらに編集を進め、一定の時期までに冊子化をする予定です。

 

↓下のリンクから【暫定版】の全体をPDFでダウンローできます。


以下、「はじめに」の部分のみ抽出してブログ上にも掲載します。

 

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1、はじめに

  2011年3月11日以降、いまも続く東日本大震災原発事故から10年を迎えます。

世界最悪の原発事故を経験してこの10年間、思想信条や立場の違いにかかわりなく、圧倒的多くの福島県民は必死に、あるいは一生懸命にそれぞれの課題と向き合ってきました。日本共産党福島県委員会はそういう県民のみなさんと全力で向き合い、寄り添って、力を合わせてきました。そして「最も困難な状況にある人たちに焦点を当てることが県民全体の苦難軽減につながる」ということをモットーにしてきました。

その一方で、国や東京電力、財界や原子力ムラがどうであったのかが問われています。もちろん一生懸命にがんばった公務員や東電社員たちもいましたが、国の政治判断や東電首脳の経営采配には県民の不信が積もりにつもっています。その結果、地元メディアの「福島民報」と福島テレビが共同で行ってきた「県民世論調査」では、常態的に内閣支持率は全国的な水準より低い支持率が続いています。

2021年2月13日の深夜23時8分に、最大震度6強を記録する福島県沖を震源とする地震が発生したのは記憶に新しいところですが、多くの県民が「原発がどうなるか」という不安を抱いたと思います。実際に地震の直後から翌朝にかけて、各地のガソリンスタンドには長蛇の列ができました。3.11を思い出して、いざという時のため給油所に向かったのです。大げさだと思う方もいるかもしれませんが、実際に地震から1週間ほどたって分かったのは、東京電力福島第一原発の1号機と3号機の格納容器で水位と気圧が大幅低下していること(地震で格納容器の亀裂が広がったと見られる)、あるいは3号機に設置した2基の地震計が2020年7月と10月に壊れたまま放置されていたために今回の地震データが取れなかったということでした。

菅首相は福島沖地震を受けた14日未明の会見で「原子力関係でもすべて異常な報告についてはありません。すべて正常ということであります」という欺瞞的な表現をしていましたし、東電も地震計のことについては約1週間伏せたままでした。こういうことが3.11以前から、そしていまも続いているのです。

その最大の動機は、原子力発電を推進すること、あるいはそのことによる利権ではないでしょうか。原発を推進しようとする限り、福島県で発生している事態を「なるべく小さく見せよう」、事故も被害も「終わったこと」にしようという力が働くことを、この10年間が証明しています。そして「新たな安全神話」がこのまま横行するならば、必ず原発事故の惨事をくり返すことになります。

この最悪のシナリオを止めるのは、物理的には難しいことではありません。「原発ゼロ」を政治決断するだけで止められます。そのためにも政権交代を果たし、原発ゼロ基本法に基づいて原発ゼロを決断する野党連合政権をつくる必要があります。同時にその道は、地域主導型再生可能エネルギーを中心とした地域循環型社会へと向けた、希望ある未来への第一歩でもあります。

 

2011年3月11日14時46分、統一地方選挙の直前ということもあり日本共産党福島県委員会の事務所では県議選に向けたビラの検討会がまさに始まろうという瞬間でした。「揺れ出したかな」と思うと叩きつけるようなゆれが何回も、「このまま地球が終わるのではないか」と思うほど長く続きました。書棚が倒れ、デスクの上のあらゆるものが次々と落ちて散乱し、マグカップいっぱいに入ったコーヒーが辺りに飛び散りました。通信が遮断される中、県議会中だったこともあり、県議と連絡を取るために県庁に向かう道中では、信号が止まり、道路にはこれまでになかった段差があちこちにでき、所々で水道管が破断して水であふれていました。県庁では小雪がちらつきはじめる中、多くの職員が隣接するもみじ山公園に避難していました。知事公邸で県議と合流した際にテレビ画面に映し出されていたのは、広大な畑地を進む黒くにごった津波とそこから逃げる車の緊迫した場面でした。本庁正面の噴水付近では県の対策本部会議が開かれようとしていました。

県委員会事務所でも対策本部を立ち上げましたが、福島市内の多くの地域が停電しており、事務所のある南矢野目地域も停電していました。そこで、幸いにして停電していなかった渡利地域にある、宮本しづえ県議が県議選に向けて借りていた国道4号線沿いの宮本事務所に対策本部を移しました。そしてすぐさま住民の安否確認や要望を聞いてきた地方議員からの情報や、原発電源喪失しているという情報に日本共産党の知見を踏まえ昼夜関わりなく県への緊急要望活動などをはじめました。聞き取った要求を元に県当局に届ける緊急要望活動は、その後24次にわたることになりました。11日の夜は全国から駆けつけた何百台という消防車、救急車、警察車両がこの事務所の前を通り、国道4号線を北上していきました。

翌12日は民主団体の関係者などもこの事務所に集まり、それぞれの情報を出し合いながら、党県対策本部として各地への調査派遣も行いました。農民連は南相馬市小高区でさっそく食料の炊き出しも行なっていました。そして午後に福島第一原発1号機が水素爆発。その日の夕には、陸路を自動車でいわき市から福島県入りしていた紙智子参院議員と大門実紀史参院議員が、宮本事務所に駆けつけ、党県対策本部とともに県当局対策本部を訪問して要望と情報共有をしました。この12日からさらに14日には3号機も水素爆発。福島市内も何カ所かで浜通りからの避難者をスクリーニングしつつ避難者受け入れをしており、そこでも、いわぶち友県常任委員(現参院議員)や地方議員、民主団体のみなさんを先頭に、要求の聞き取りをし、後に炊き出しなどの救援活動にもつなげていきました。

3.11後、1週間から10日ほどは多くの地域でほとんどのライフラインが止まり、また福島市内でも放射線量が毎時25マイクロシーベルトにのぼる状況のなかで、多くの県民が不安な日々を過ごしました。党県委員会では3月20日には放射線に詳しい医師を講師に放射線の学習会も持って、救援活動に当たりました。24日には党と民主団体などでつくる「ふくしま復興共同センター」が発足。断水が長期化したいわき市などでは、給水ボランティアなども始まりました。

同時にそのうちにも「福島ナンバー(の自動車)お断り」という差別が始まり、県内では放射線に対する考え方の違いによる分断や、政府の「線引き」による分断、賠償にかかわる分断などが始まっていきました。

 

福島県委員会と民主団体は3.11後、救援活動に全力を尽くしながら、同時に完全賠償などの要求実現と合わせて原発ゼロの発信もはじめました。6月25日には福島市内で「原発いらない福島集会」を開催して約1,000人が参加。10月30日には「なくせ原発10・30大集会in福島」が同じく福島市内で開催され、全国から約1万人が参加しました。県議会では7月1日に日本共産党の神山えつこ県議団長の議会質問に、佐藤雄平知事(当時)が「原発に依存しない」ことを表明。10月20日には新婦人が提出していた県内原発全基廃炉の県議会請願が採択されました。

そして2011年秋の県議選で日本共産党は3議席から5議席へと議席を増やし、3回連続して交渉会派となる5議席を獲得しました。2016年には県常任委員だった、いわぶち友さんが比例代表(北海道・東北を活動地域)で初当選しました。

3.11後、全国的にもいたる所で原発ゼロや再稼働に反対するデモや運動が広がり、2011年秋以降は首相官邸前で首都圏反原発連合による金曜官邸前行動が大きくなっていきました。この流れはやがて安保法制=戦争法に反対する運動につながり、野党共闘で政治を変える出発点となっていきました。

原発事故は絶対にくり返してはならない人災であり、その後の政治禍もふくめて、その犠牲はあまりにも大きいものでしたが、同時にだからこそ、そのなかから社会を前向きに動かす火種が弁証法的につくられました。それを本格的に社会進歩につなげていけるかどうか、それは原発事故から10年を迎えるいまの私たちの運動にかかっているといえるのではないでしょうか。

その中で日本共産党が果たす大きな役割に誇りと確信を持ち、「原発事故から10年 福島県の現状」を党県委員会としてまとめるものです。

 

まとめにあたっては、①原発事故避難者の現状、②県民のくらしと生業・賠償、③子どもと教育、④廃炉・除染・中間貯蔵、⑤復興の5つのワークグループに分かれて手分けをして作業を進めました。

 

2021年3月11日

日本共産党福島県委員会 委員長 町田和史

 

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